2016年11月6日日曜日

センスって何ぞや?センスと天才と凡庸と

センス

センスがいい

とは何ぞや?


センスが悪い

と言われたら、

それはもう痛恨の一撃。


だからこそ誰しもが、

センス良くあろうとするか、

無難にあろうとするのだが、


そもそも

センス って何!?

という疑問があったとです。




ファッションセンスについて



まず思いついたのがファッションセンス。

ここでセンスが悪いと言われてしまえば

例えば多感な29歳メンズからすれば

それは致命傷である。

注:僕が言われたワケではない。



しかし、だからと言って

無難な着こなしをするだけでは

センスがいい

の称号は得られない。



だがしかし、

えてして、

センスを求めてやってみた結果、

自分のセンスでファッションを追求した結果、

「センスが悪い」

という不名誉な称号を

知らぬ間に獲得してしまっている人も

いるのではないだろうか。

注:別にセンスを求めてやったワケでは決してないのだが、僕が新入社員の入社式用に買った鮮やかな緑一色の勝負ネクタイは、大変評判が悪かったそうな。



センス とは

周囲からの脱却が必要であり、

一方で周囲との調和が必要な、

二律背反を孕んだ

大変高度なバランスで形成される

感覚であるということである。



そして、

周囲からの脱却には、

リスクが伴うのだ。





調和 が抜け落てしまった センス



こんなことを考えていて、

ハッとしたのが、


とかく、

人は、

センスを求めだすと、

周囲からの脱却

その一方向ばかりに

目がいってしまうのでは

なかろうか?



しかし、

ファッションセンスにしろ、

笑いのセンスにしろ、

格闘センスにしろ、


相手あっての感覚である。


自分ひとりの感覚で、

求めたセンス、

それはただの

「自己満足」に

なりかねない。


だがしかし、

たまに自分ひとりの感覚で

追求された事象が、

ばちこん周囲にハマっている

レアケースもある。

このことについて

「センスいいよね~」と

言われていることの方が

圧倒的に多いような気がするのである。



けれども

実はこれ

ただの“天才”の所業だったのだと

いうことに気付く。


脱却オンリーの行動で

周囲が評価しついてくる。

それは

“天才”という他ない。


そう、

それが“天才”が“天才”たるゆえんなのだ。







センス は“天才”の専売特許だったのか?




決してそうではないはずだ。



しかし、

その“天才”の結果ばかりが目につくから、

みんな結果(=センス)を求めて、

“天才”の模倣(=脱却)をしようと躍起になる。


端折って言えば、

みんな

“天才”になろうとしているのだ。

そして当然、

“天才”じゃないから、

調和を欠く。

センスが悪く なってしまう

ということだ。



圧倒的な個の力で

しかも本人は無自覚で、

周囲を無理やり調和させることができるからこその

“天才”なのだ。

そして「センスがいい」と称賛を受ける。



このヒラメキによって

僕は決して“天才”ではないと

ハッキリ自覚できた。



であるならば、

“天才”でない“凡庸”は

調和からまず攻めればいいんじゃないかと。

それによりセンスの向上を図るのだと。


…そんなことを考えました。





調和から考えるセンスとは?



人を喜ばせることができること、

満足頂くための行動、

心地よくなってもらえること、


それが、

調和に焦点を当てて導き出される

センスのよさ

ではなかろうか?




これは最近、

あるイベントで、

支払った代償に対する対価について、

その場にいる全員が満足できなかったため、

参加者の間で「センスが悪い、センスが悪い」と

連呼することがちょっとしたブームになったことから、

思い至ったことである。






センスとはまず第一に調和である。

こう考えると、


安直な脱却

=周囲を無視した奇抜さや突飛さや派手さ


これらのことを、

理性でコントロールできるのではなかろうか。





周囲の思いを第一に考慮し、

調和を保ちつつ、

さりげなくささやかな

独自性をブレンド、

それがその場を更に盛り上げる

ポイントとなる。


それが、

調和に重きを置いた“凡庸”なりの

センス



そう僕は結論づけた。




























特にオチはありません。



センスないですか?笑




おわり

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